未来を担う子どもたちに、どのような教育環境を保障していくのか。学校指導体制の在り方について政府内で議論されている。学習指導要領の改訂・全面実施を控え、小学校英語の教科化にも対応しなければならない。教育上の諸課題が増加し、学校や教員が忙しくなっているのは事実としてあるのだろう。
しかし、最近明るみに出た原発避難の生徒へのいじめ問題における学校や教員、市教委の不誠実な対応や個人情報を隠れ蓑にした怠慢は、教育施策への強烈な不信感となって世間に認識されている。昨年度のいじめ認知件数は22万5千件に達するが、認知件数の都道府県差は最大で約26倍にもなるという。救いは、市教委の第三者委への調査諮問がいじめ防止対策推進法に基づき、氷山の一角とはいえ公表されたことだろうか。
確かに、悩みながらも懸命に取り組んでいる学校があること、教員も少なくないことは認識している。だが、恐喝まがいのいじめに対応できなくて何の教育なのか。「教育の放棄に等しい」とまで指弾される教育現場とは何なのか。いじめは人間としての尊厳を踏みにじるものだと教え諭す以外に教員はいったい何に忙しくすべきだというのか。
いじめは、どのような学校でも起こり得るものであるが、「してはいけないもの」「止めなければいけないもの」という認識を学校や教員が資質を高めて共有し、子どもたちを指導していかなければならない。「いじめ大国」返上に向けて毅然とした態度を示す教員を大学は世に送り出していかなければならい。人としての根本の教育ができず、試験の点数を上げることしかできない学校や教員であってはならない。
文科省では今後、道徳の全面実施を待たすに道徳教育の充実に取り組み、「考え、議論する道徳」の授業づくりを推進する学校の取組を後押ししていく方針だという。道徳の特別の教科化のきっかけもいじめに関する痛ましい事案だった。全国の学校において「他者と共によりよく生きるための基盤」を培う教育の実践を期待してやまない。