「自分を取り巻く世界が色褪せて見えて、現実味を感じない」‐これは「現実感消失症」と呼ばれる主観的な感覚の異常。こうした奇妙な感覚は、青年期に、多い場合で七割程度の若者に一過性に起きることが報告されており、誰でも一度や二度は経験したことがあるかもしれない。
しかし、一時的な感覚であるはずのこのような体験が長期間続く場合、それは、精神疾患症状のひとつ、離人感・現実感消失症として捉えられる。現実感消失症や離人感(自分自身から現実味が失われる感覚)は、側頭葉てんかん患者の発作症状として生じるほか、うつ病や統合失調症患者にもしばしば現れるという。
周囲の状況から現実味が失われるという感覚は、心の病気と捉えられ、ほとんど研究がなく、どのような脳内のメカニズムによってその感覚が生じるかは明らかにされていなかった。
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構放射線医学総合研究所の脳機能イメージング研究チームは、外界が色褪せて見える知覚変容により、現実味が感じられなくなる脳のしくみを発見した。
量研放医研では、脳内の神経伝達物質の動態を調べることができる画像診断装置のPETと、脳のどの部分が活動しているかを血流の変化で調べることができるfMRIを用いて、心理学的錯覚が生じる脳のしくみを解明してきた。そこで、これらの手法と、視覚実験によって色彩知覚の変容を誘導する手法を組合せて、外界が色褪せて見える知覚変容により、現実味が感じられなくなる感覚を生じる脳のしくみを明らかにすることを目指した。
「現実とは何か」の哲学的問いへの脳科学的解明に繋がるか
健常男性被験者14名に、脳活動を計測しながら、彩度が異なる花の写真を、高彩度の後に中彩度、低彩度の後に中彩度の順に見せ、それぞれの写真に対して感じる現実味を、視覚的評価スケールを用いて「0」(全く現実味がない)から「100」(非常に現実味がある)で評定してもらった。
このように提示すると順応効果が利用でき、高彩度写真の後に中彩度写真が提示されると「色褪せた」と知覚し、低彩度写真の後に中彩度写真が提示されると「色鮮やかになった」と知覚して、物理的には同じ中彩度写真に対する主観的な知覚のみを変容させることができる。
中彩度写真に対する現実味の評定結果から、低彩度の後に中彩度が提示され(低彩度順応)「色鮮やかになった」と知覚した時よりも、高彩度の後に中彩度が提示され(高彩度順応)「色褪せた」と知覚した時のほうが現実味の程度が低くなる。
高彩度順応して「色褪せた」と知覚している時の脳活動と線条体のドーパミン受容体密度との相関関係について解析した結果、線条体のドーパミン受容体の密度が高い人ほど、「色褪せた」と知覚している時に、右背外側前頭前野および左下頭頂小葉の神経活動が高いことが明らかになった。
これまでの脳科学研究で、背外側前頭前野と下頭頂小葉の神経活動は、視覚意識や注意機能に関連することが知られている。このことと、放医研の研究の成果から、色褪せて見えると錯覚することで現実感が低下する際、線条体のドーパミン受容体密度が高い人ほど、視覚意識や注意機能に関連する脳領域の神経活動が高くなるという脳のしくみが初めて示された。
これにより、心の病気として捉えられることの多い離人感・現実感消失症などの解離性障害群が脳の病気として認識され、発症する脳のしくみの解明、しくみに基づく診断や治療開発に繋がることが期待できる。
また、このしくみを裏返せば、私たちが見えているものをどのように現実として捉えているかを示すことから、「現実とは何か」という哲学的問いへの脳科学的解明に繋がることが期待できる。