□ポイント■
〇宮本武蔵に関する一次史料を新たに4点発見。
〇寛永17年11月の山鹿御茶屋に、武蔵と足利道鑑のほかに武士の津川四郎右衛門、儒
学者の朝山意林庵が呼ばれていたことや、武蔵が茶人桑山宗仙の孫と懇意であったことから、〝文化人サークル〟の一員としての武蔵の姿が明らかになった。
〇新藩主細川光尚との関係性を示す史料から、『五輪書』執筆開始時の光尚と武蔵の関係が明瞭になった。
宮本武蔵(?―1645)に関する確かな歴史資料(一次史料)は、その晩年にあたる寛永17年(1640)に熊本藩主細川忠利(1583-1641)に招かれて以降のものが、ごく僅かに伝来しているだけ。今回、熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽教授、後藤典子特別研究員らは、細川家の古文書群(公益財団法人永青文庫所蔵、熊本大寄託)の中から3点、第一家老の松井家の古文書群(熊本大学所蔵松井家文書)から1点、合計4点の史料を新たに発見した。新発見史料の概要は以下のとおり。
⑴4点のうち2点(永青文庫細川家資料)は、寛永17年11月に、忠利が肥後国山鹿(現熊本県山鹿市)の御茶屋(江戸時代の藩主や幕府の役人が参勤交代などに際して休息・宿泊した施設)へ武蔵とともに呼んだ3人の人物の名前が明記されているもの。忠利の命令を奉行所から担当役人に伝達する惣奉行衆の書状控えの分厚い冊子の中から発見された。3人は、足利道鑑、津川四郎右衛門、朝山意林庵で、足利道鑑以外の2人は今回の史料により初めて明らかになった。
⑵もう1点(熊本大所蔵松井家文書)は、寛永19年閏9月に細川家第一家老の松井興長が細川家の大坂留守居下村五兵衛に宛てた書状の控え。茶人桑山宗仙(1560-1632)の孫の桑山作右衛門と、武蔵が熊本で懇意にしていたことを示している。
⑶4点目(永青文庫細川家資料)は、細川忠利の跡を継いだ藩主細川光尚が江戸から国元に出した書状の控えの分厚い冊子の中から発見されたものです。寛永20年9月、光尚は江戸から武蔵に書状を出し、体調を気遣うとともに、来春熊本に戻ったら対面して話そう、と伝えている。