2022年11月14日(月)から21日(月)まで、私の運営する社会福祉法人光朔会オリンピアの職員研修のため、3名のスタッフとともにスウェーデン南部の都市「ヴェクショー」と首都「ストックホルム」を訪れました。【山口宰】
市の高齢者福祉部門で認知症ケアシステムや人材採用・育成について説明を受けたり、高齢者のケア付き住宅やデイサービスセンターでコロナ禍の対応、在宅の高齢者支援、家族支援の現状についてお話を聞いたりと、充実した時間を過ごすことができました。
現在スウェーデンで増加している「セーフティ住宅」(Trygghetsboende:日本のサービス付き高齢者向け住宅に相当)を見学した時には、急遽、スモーランズポステン(Smålandsposten)という地元の新聞社から同行取材を受けることになりました。日本の高齢者福祉の現状や、20年前の留学時の思い出などについてインタビューにお答えしたところ、見開き2ページで大きく取り上げられました。
さて今回は、このようなスウェーデンの高齢者福祉がどのように形作られてきたのか、ご紹介していきたいと思います。
◆ スウェーデンの高齢者福祉のあゆみ
1952年、作家イーヴァル・ロー=ヨハンソンは「スウェーデンの老い(Ålderdoms‐Sverige)」というルポを出版し、老人ホームの実態を批判的に描きました。この本はベストセラーとなり、高齢者介護のあり方に関して、一般の人たちも巻き込んだ議論が広がりました。
ちょうどこのころ、1920年代の家庭支援ホームヘルプをルーツとし、イギリスの取り組みの影響を受けた「高齢者向けホームヘルプ」が急速に拡大したこともあり、「施設から在宅へ」という流れが作られていきました。1954年には4万人、1960年には8万人、1970年には25万人がホームヘルプを利用するようになり、ピーク時の1978年には、当時の高齢者の約3割(利用者数35万人)がホームヘルプを利用していたことになります。
ストックホルム大学のマルタ・セベヘリ名誉教授は、スウェーデンのホームヘルプの変遷を3つの時代に分けて分析しています。
「伝統的モデル」の1960年代は、ホームヘルプは掃除やベッドメイク、洗濯、調理などに加えて、「身体介護が必要とされることもある」とされ、仕事内容はホームヘルパーと利用者の間で決めていました。ホームヘルパーは「家事に豊富な経験を持つ専業主婦」から採用されるべきとされていました。
「ベルトコンベア風モデル」の1970年代は、介護を必要とする高齢者のための集合住宅「サービスハウス」が増加した時期でもありました。建物内にデイサービスやヘルパーステーションが配置され、介護サービスの合理化が図られました。同時に、フルタイムのホームヘルパーを増やし、上司や同僚の助言を受けられるよう、職場環境の改善も目指されました。
そして1980年代の「小グループモデル」では、コミューン(市)全体を小地域に分け、それぞれに責任者を配置し、24時間体制のホームヘルプを提供する仕組みが整えられていきました。高齢者の自立生活支援という考え方が打ち出され、ホームヘルパーの専門職化が進められていきました。これらの取り組みは、いまの日本のホームヘルプのあり方にも大きな影響を与えていると言えます。
◆ エーデル改革
「施設ケアから在宅ケアにシフトした」と紹介されることが多いスウェーデンですが、決して施設の代わりにホームヘルプを充実させていったわけではありません。「脱・施設論争」を引き起こした古いタイプの老人ホームではなく、医療的ニーズの高い高齢者のためのナーシングホームや、サービスハウスは増加を続けてきました。1970年代、80年代は「施設も在宅も」充実していった時期でもありました。
1980年代、スウェーデンの高齢化率は17%に達し、世界で最も高齢化の進んだ国となっていました。介護サービスの供給不足という問題は生じていませんでしたが、ランスティング(県)が医療、コミューン(市)が社会福祉サービスという切り分けの中で、日本と同じように社会的入院が増加し、これが社会問題として顕在化してきました。入院医療が終わった高齢者をコミューンが積極的に受け入れなかったこと、入院の自己負担の方が安く病院に留まる人が多かったことが原因でした。
そこで、1992年1月1日、国会での長期間にわたる審議を経て、高齢者医療福祉の大改革、「エーデル改革(Ädelreformen)」が実施されました。エーデルという名前は、この改革を審議した高齢者委員会(äldredelegationen,ÄDEL)に由来しています。
この改革では、
(1)ランスティング(県)の「医療」に属していたナーシングホーム(約3万1000人分)やグループホーム(約3000人分)をコミューン(市)に移管し、老人ホームやサービスハウスなども含めた高齢者施設を「ケア付き住宅」(särskild boende)と総称する
(2)ランスティングの高齢者医療で働く医師以外の職員約5.5万人(看護師、アンダーナース、PT、OT、ケースワーカーなど)をコミューンの雇用とする
(3)医師が治療終了と判断した高齢者をコミューンが適切に受け入れられずに入院期間が延長する場合、コミューンがランスティングに費用を支払う
(4)これらの改革に伴う財源をランスティングからコミューンに移管する
‐といったことが行われました。
エーデル改革の結果、
○ 社会的入院が大幅に減少し、急性期病棟での在院日数が短縮されたこと
○ ケア付き住宅が整備され、居住環境の向上が図られたこと
○ コミューンの看護師数が充実したこと
‐などが評価されています。
その一方、ケア付き住宅の入居者の重度化や、在宅の高齢者ケアに対する家族の負担増、ランスティングとコミューンのリハビリテーションに関する連携などの課題も見えてきました。そしてこれらの議論が、2006年からの「高齢者医療・高齢者ケア十か年国家戦略」へとつながっていったのでした。
◆ スウェーデンから学べること
1977年、ストックホルム郊外のウップランド・ブロ市で、高齢者施設の改築が行われました。工事の間、入居者が一時的に住むことができるように、3階建ての一般アパートの1階部分5世帯を小規模なユニットに改築したのが、最初の認知症グループホーム「ロビュヘメット」です。実際に運営を始めてみると、驚くべきことに、認知症の人たちの症状が落ち着き、当時の長期療養病院に比べ運営費用が安いことも明らかになりました。
1983年にこの取り組みに関する報告書が発表されると、グループホームはスウェーデン全土に広がっていきました。日本にグループホームが伝わるきっかけとなった、「スウェーデンのグループホーム物語(バルブロー・ベック・フリス著:1993年)」の舞台である「バルツァゴーデン」も、そのうちのひとつです。1990年代にはスウェーデン政府も、補助金を出すことによってグループホームの開設を後押ししていきました。
日本の高齢者福祉においても、現場の先駆的な実践が徐々に広がり、やがて全国的なムーブメントとなって、制度化されていった例がたくさんあります。
1980年代に「通い」の場としてスタートした「宅老所」は、ニーズに応じて「泊まり」「訪問」「宿泊」と機能を増やし、やがて「小規模多機能ホーム」と呼ばれるようになり、地域密着型サービスの「小規模多機能型居宅介護」につながっていきました。
1993年に富山県で設立された「このゆびとーまれ」からスタートした、赤ちゃんから高齢者まで、障害の有無にかかわらず誰もが集まれる場を提供する「富山型デイサービス」は、「共生ケア」として全国に広がっていきました。その道のりは決して平坦なものではなく、長い時間をかけて多くの障壁を乗り越え、ようやくいまの形となっていったのでした。
今回、スウェーデンで訪問した多くの場所で、高齢者福祉・障害者福祉にかかわらず、「他の地域の優れた実践から学んだ新たな取り組み」を目にしました。このスピード感の正体は何なのか − 。
スウェーデン在住50年以上で、長年リンネ大学で教鞭を執ってこられた、私の恩師でもある経済学者の鈴木満氏に疑問をぶつけてみました。すると、「本当に人々のためになる良いものであれば、メンツやプライドにとらわれることなく、積極的に取り入れていく。これがスウェーデン人の合理性です」と教えていただきました。
もちろん、私はスウェーデンの全てを礼賛するつもりはありません。高齢者福祉においても、数々の政治的な問題や事件があったことも事実です。
ですが、いま、困難な状況に直面している日本の高齢者福祉が、スウェーデンの「実行力」「変革力」から学べることはまだまだあるのではないか − 。改めてそう感じさせられたスウェーデン訪問でした。