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2019年11月4日 死に方は選べないが、死ぬまでの生き方は決められる

今年も仮装した集団のハロウィン騒動。そのルーツは、「冬=死」の季節から翌年5月の復活祭まで生き延びられる保証のない古代ケルト人の厳かな供養の日だったのだが。ケルト民族の末裔かもしれないアイルランドのS・オウマハニー医師は、終末医療の現場から「現代の死に方」を執筆している。「死は万人に訪れる。私たちは健康な時にどう死のうかと考えるが、思い通りにならないのが常。終末期にあって、死ぬことを医療と切り離す必要性がある」と著者はいう。

死に方で連想するのは母親の終末医療である。高齢で経口摂取が出来なくなった時、医師から胃ろう装置を奨められ処置した。だが、肺炎を患い人工呼吸器にもつながれた。果たしで本人がそれを希望していたかと考えさせられる。今になって思えば、本人の意思がしっかりしている間に終末期医療に対する本人の希望を確認すべきだったのではなかったのかと悔やみもする。将来の治療方針を患者・家族で話し合う「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」の認識があったならば、死に方は選べないが死ぬまでの生き方は決められるとつくづく思う。

ところで、最近「VSED(Voluntarily Stopping Eating and Drinking)」という終末患者の飲食拒否があるそうだ。実際に試みようとする患者は一定数いるという。欧米の医療現場ではVSEDは知られた言葉である。米国では2017年看護師協会がVSEDを患者の権利として、その意思を尊重すべきとの声明を出している。オランダでは患者ケアのガイドブックにVSEDの記載がある。わが国では患者の「死ぬ権利」についての議論は進んでいない。尊厳死の法整備は、「死という個人的なものに法律が関与すべきでない」という反対の声が根強いことにあると思う。

さて、自らの意志で命の幕を引く行為は認められるのか。海外でみられるような生と死の自己決定は私たちの社会で成り立つのか。正解のない問いを巡り思考は延々と続く。曹洞宗の大本山永平寺の小林昌道監院は、「仏教で自殺は他殺よりもいけない。自分を生かしきってから死んで下さい。人生の成否は自分が決めることではない。死ぬまでにあなたに会えて良かったという人が3人いたら大成功と思いなさい」と説いていた。自分の死に方については「自然死」と家族に伝えているが、高僧のいうあなたに会えて良かったという人は3人いるかは覚束ない。


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